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新しき土

小杉勇 遺愛品  寄せ書き屏風

一般公開  終了いたしました
  2012年4月7日(土)~5月6日(日)  ※休館日の4/9、16、23を除く上映期間中
  東京都写真美術館ホール(恵比寿ガーデンプレイス内)

小杉屏風全体
上部寄せ書き部分  所蔵・提供:小杉隆一郎

由来
屏風は、映画『新しき土』で原節子と共演した俳優・映画監督の小杉勇(故人)の遺愛品で、1983年に小杉さんが逝去された後も小杉家に保管されていた。
屏風の存在は過去に公表されたことは無く、今回、映画『新しき土』の再公開を知ったご家族からの申し出で、初めて一般に公開されることとなった。

概要
二曲一隻  高さ約152cm  幅約152cm 

小杉勇と親交のあった昭和を代表する著名な映画人、画家の手で、大小併せて二十以上の絵や書がサインを添えて描かれている。



1、鈴木信太郎(画家)  2、小津安二郎(映画監督)
3、吉田謙吉(映画『新しき土』美術・装置)  4、作者不詳
5、作者不詳※東郷青児(画家)か?  6、作者不詳  7、東郷青児?※青児のサインが左下に。
8、平林龍雄(録音)?※真中のサインは「吐ム」で内田吐夢?
9、小さく勇のサイン  10、アーノルド・ファンク(映画『新しき土』監督)
11、ヴォルフガング・バジェ(編集・音声エンジニア・脚本家)
12、田坂具隆(映画監督)※「一即夛」と読める。俗に言う“いっしょくた”の語源で、一即多、多即一という仏教用語。
13、作者不祥  14、リヒャルト・アングスト(映画『新しき土』撮影)
15、海老原喜之助(画家)  16、江川宇礼雄(俳優)  17、ゼップ・リスト(俳優)
18、作者不詳  19、リヒャルト・シュヴァイツァー(脚本家)  20、作者不詳

屏風の内容・由来から、一度に全部書かれたものでは無く、ある時期に小杉家を訪れた著名人が、記念に筆を取って書き入れていったものと推測される。
寄せ書きが書かれた時期については、「1937」と記されたサインが3個あることや、直接の係わりがあると思われる下記作品の制作年などから、少なくとも映画人たちが書いたのは1937年前後であろうと思われる。

『新しき土』(1937公開)
  アーノルド・ファンク(監督)、リヒャルト・アングスト(撮影)、小杉勇(主演)
『限りなき前進』(1937公開、内田吐夢監督)
  小津安二郎(原案)、小杉勇(主演)、江川宇礼雄(共演)、平林龍雄(録音)
『国民の誓』(1938公開、野村浩将監督)
  リヒャルト・アングスト(原作・撮影)、リヒャルト・シュヴァイツァー(脚本)、ヴォルフガング・バジェ(脚本)、ゼップ・リスト(主演)
『真実一路』(1937公開)『五人の斥候兵』(1938)『路傍の石』(1938)『爆音』(1939)『土と兵隊』(1939)
  田坂具隆(監督)、小杉勇(主演)、平林龍雄(録音※『真実一路』を除く)、『路傍の石』では江川宇礼雄が共演

画家たちが寄せ書きをしたのが同時期であるのか、また、映画人たちとの間に交流があったのかどうかについては現在のところ不明だが、小杉勇自身は、1923年(大正12年)に日本映画俳優学校へ入学する以前は、日本橋の白木屋呉服店で装飾などの仕事をしながら画家を志しており、当時はまだ無名だった多くの画家たちと、映画界に入る前から親交があったと周囲に語っている。
また、映画界で名を成した後も日常的に絵筆を取っていた小杉は、屏風に絵を寄せている鈴木信太郎、海老原喜之助とは日ごろから付き合いがあり、東郷青児からも個展の度に案内が届いていたそうである。
屏風には作者が判明しない個所も多く、謎解きの面白さも尽きない。今回の公開によって情報が寄せられ、当時の芸術家たちの交流に新たな光が当たることが期待される。

主な作者について
画家
・東郷 青児 (とうごう せいじ、1897~1978)
鹿児島市に生まれ、幼少時に東京に転居し、青山学院中等部を卒業。1921年から1928年までフランスに留学。1931年二科会会員となる。1960年日本芸術院会員。1969年フランス政府より文芸勲章を授与される。1978年没後に文化功労者。柔らかな曲線と色調で描かれた女性像が有名。

・鈴木 信太郎 (すずき しんたろう、1895~1989)
東京八王子生まれ。1936年二科会会員となる。戦後は1955年に二科会を退会して一陽会を結成し、中心的存在として活躍した。1969年日本芸術院会員。1988年文化功労者。明朗な色彩で、風景、花、人形、静物を得意とした。

・海老原 喜之助 (えびはら きのすけ、1904~1970)
鹿児島県出身。18才で渡仏。藤田嗣治の薫陶を受けて才能を発揮し、“恐るべき子供”の異名を取った。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフにした作品を数多く制作した。1970年、パリで客死。

映画人
・小津 安二郎 (おづ やすじろう、1903~1963)
東京深川生まれ。1923年、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影部助手として入社。1927年に監督デビュー。1962年の『秋刀魚の味』まで、全54作品を監督。“小津調”と称される独特の映像世界で無声映画からトーキー、白黒からカラー映画と世代を超えて優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。

・田坂 具隆 (たさか ともたか、1902~1974)
広島県出身。1924年に日活大将軍撮影所へ入社。3年目には監督デビュー。1932年、日活太秦撮影所の争議で内田吐夢、伊藤大輔、小杉勇らと「七人組」を結成し独立、新映画社を興すが解散。新興キネマを経て日活に復帰し、小杉勇を主演にヒューマニズムを貫いた傑作を次々と発表した。1945年、終戦の年に召集されて郷里で原爆に遭う。トイレに入っていて助かったが、原爆症を発症し戦後は長い闘病生活を送った。1954年に映画製作を再開した日活に入社して再起。1960年東映に移籍すると、佐久間良子、三田佳子など女優の演技開眼に手腕を発揮し晩年を飾った。

・江川 宇礼雄 (えがわ うれお、1902~1970)
神奈川県出身の俳優。父はドイツ人、母は日本人。1920年に谷崎潤一郎が文芸顧問を務めた大正活映に入社。牧野教育映画を経て、1931年に松竹蒲田撮影所に入社し、小津安二郎『東京の女』などに主演。1935年に日活多摩川に主演スターの一人として迎えられて活躍。戦後は新東宝で活躍したのちフリー。1966年『ウルトラQ』での一の谷博士役が有名。

・吉田 謙吉 (よしだ けんきち、1897~1982)
東京日本橋生まれのマルチクリエイター。東京美術学校(現東京藝術大学)在学中の1920年にサイレント映画の字幕タイポグラフィを制作。同校卒業後、古賀春江らの新興美術運動グループ「アクション」の設立に参加。1923年に土方与志と小山内薫が創設した「築地小劇場」に創立から参加。ポスター・舞台装置を担当し、表現主義的な舞台装置で注目された。また、今和次郎とともに始めた「バラック装飾社」にて「考現学」を追求。第二次世界大戦後は、吉田謙吉舞台美術研究所を設立し、同研究所からは中林啓治、松下朗らを輩出した。

・アーノルド・ファンク (1889~1974)  ※映画『新しき土』監督 →スタッフ欄参照

・リヒャルト・アングスト (1905~1984)  ※映画『新しき土』撮影カメラマン
スイスのチューリッヒ生まれ。写真スタジオのアシスタントとしてキャリアを始めたアングストは、熱心なスキーヤーで登山家でもあったことから、アーノルド・ファンクのチームに撮影カメラマンとして参加するようになり、ファンクの代表作の撮影を次々と担当。グリーンランド、ボルネオ島、チベットでの撮影を経て、1936年に「新しき土」の撮影で来日。戦前、戦後を通じてドイツ映画の最も重要な撮影監督として活躍を続けた。

・ゼップ・リスト (1900~1980)
ドイツの俳優。ジャンプやクロスカントリーなどの競技スキーヤーとしても有名だったリストは、屏風にもスキーヤーの絵を描いている。アーノルド・ファンクが監督した山岳映画に数多く出演したリストは、1938年に野村浩将監督の『国民の誓』に主演。第二次世界大戦後は、個性的な脇役として多くの映画やテレビドラマに出演した。

・リヒャルト・シュヴァイツァー (1899~1965)
スイス・チューリッヒ生まれの脚本家。第18回アカデミー賞(1945年対象)脚本賞を「Marie-Louise」で、第21回アカデミー賞(1948年対象)原案賞を名作「山河遥かなり」で受賞している。1937年にはリヒャルト・アングストの撮影で「クライネシャイデック」(※アイガー北壁山麓の地名)を監督。アングストの原案・撮影による『国民の誓』(1938、野村浩将監督)では、脚本を担当している。

・小杉 勇 (こすぎ いさむ、1904~1983)
1904年宮城県石巻に生まれる。石巻商業学校を卒業後、日本橋の白木屋呉服店装飾部に就職。装飾などの仕事をする傍ら画家を志していたが、映画に魅せられ、1923年の日本映画俳優学校設立年に2期生として入学する。1925年に日活大将軍に入社。『人形の家』(阿部豊監督)や『生ける人形』(内田吐夢監督)、『都会交響楽』(溝口健二監督)などに出演。野放図な魅力を持つ新しいヒーロー像として注目され、入江たか子らと共演した村田実監督の『この太陽』(1930)で人気を不動のものとする。
1932年、日活太秦撮影所の争議で内田吐夢、伊藤大輔、田坂具隆らと独立、新映画社の設立に参加。新興キネマに移行するが、1935年には内田吐夢監督らと日活に復帰。戦前の日活の黄金期を築くこととなる。
1936年には内田吐夢監督による『人生劇場』の封切り、そして日本初の国際合作映画『新しき土』に出演。続いて田坂具隆監督作品の『真実一路』、『五人の斥候兵』、『土と丘隊』と、日本映画史に残る傑作に次々と主演した。
戦後は映画監督に転じ、1955年からは古巣の日活で数多くの娯楽作品を監督。近年再評価の声も高い。同時に俳優としてもその稀有な個性で活躍し続けた。生涯に出演した映画作品は約200本、監督作品は70本以上を数える。
作曲家の小杉太一郎(1927?1976)は息子で、300本を越える映画・TV・ラジオドラマ等の劇伴音楽を作曲し、日本映画の黄金時代を支えた。

 


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